テクノロジーは芸術ではない。アートぶっているテクノロジーの嫌いなところは、それが人間を時間から、死から解放しないにも関わらず、それが可能にする差分によってその根本的な不能を覆い隠してしまうところだ。その不能にこそ人間(すなわちアートがやってき、また向かっていく先)が認められるにも関わらず。美しさとは美しさの失敗にこそ認められる。ミロのヴィーナスのように。それは完璧性ではない。失敗は機会であり、すなわち時間である。それぞれの機会喪失にこそ私たちが帰っていく時間の海があり、機会の潤沢は美を可能にするように見せかけて、その経験には疎外感しか認められないだろう。計算機械が可能にする機会の潤沢は、よってそのアウトプットそれ自体に実存的意義を付与しない。それがむしろ浮き彫りにするのは、我々に残された機会の不足であり、テクノロジーが可能にする美の形があるとすれば、我々を機会で圧倒することによって、我々自身としてはそのすべてを経験するに能わないということを意識するためのインターフェイスを提供することにあると思う。テクノロジーが提供する機会によって生じる成功は、あまりにもありふれていて、それ自体としては意味がなく、しかしそれを過剰にすることによってこちら側にある不足を際立たせることに道があると思った。素面になってきたので寝る。